今と違います。江戸時代の寿司あれこれ


昨日は助六寿司について、魚からかけ離れた記事になりました失礼をお許しください。
さて、江戸時代の寿司について気になるとのご意見をいただきましたので、本日はそんなお話を綴りたいと思います。
江戸町内での握り寿司は現在のファーストフードみたいなもので、発案された当初は岡持ちに入れて売り歩くスタイルでしたが、そのうち屋台が登場します。
屋台の寿司屋は気軽に入れることが受けて、握り寿司の食文化が定着します。
せっかちな江戸の町民は寿司屋の屋台の暖簾を潜り抜けると、さっとネタを注文して立ち食いで寿司を掻っ込んでいました。
また、そんな食事が江戸町民の粋なスタイルとされていました。
基本的に握り寿司のネタは江戸湾(今の東京湾)で獲れた魚が中心でコハダ、エビ、アナゴ、タイ、シラウオ、アジ、イカ、タコ、ハマグリが定番でした。
当時は冷蔵保存という技術がないので寿司ネタを酢締めや、醤油漬け、火を通すなど処理を施していました。
ネタに味が沁み込み、シャリは現在よりも味付けが重要視されていたので今の様に醤油を付けて食べるということはありませんでした。
今では国民的人気のマグロは、魚体が大きすぎて保存ができないということで見向きもされませんでした。
トロに至っては脂が多くて全く美味しくないという評価だったそうです。
その後、江戸後期にマグロの赤身を湯引きして醤油漬けにしたところ評判がよかったので、ようやく人気の魚に仲間入りしましたが、高級魚になるのは昭和時代まで待つことになります。
さて昨日少し触れましたが、江戸時代の握り寿司の大きさは現在の江戸前寿司の2倍です。
おむすびサイズのシャリに、これまた大きなネタ…想像もつかないですね。
ちなみに現在の江戸前寿司は注文すると2貫出てきますが、寿司のサイズが大きくて食べやすくするために半分に切ったことが始まりだとか。
幕府財政難で時折倹約令が出されて、寿司が食べられなくなることもありましたが、春の花見、夏の涼み、秋の月見に冬の雪見、ほかにも相撲や歌舞伎の観覧のお供といった具合に、江戸町民に於ける握り寿司は切り離せない食文化となりました。
当時は1貫10文で現在の通貨に換算すると150円程、回転寿司屋での1皿の値段とほぼ同等ですね。
江戸町民のソウルフードともいえる存在でしたが、一方で庶民が入ることができない高級寿司店があったのです。
文政7年(1830年)、深川に堺屋松五郎という寿司職人が「松が鮨」という店を出します。
松五郎が造る寿司は大変華麗なものであり、「玉子は金の如く、魚は水晶の如く」と江戸中に言わしめたほどでした。
主に幕府高官など権家や豪商が中心に愛用していましたが余りの贅沢ぶりに、水野忠雄の倹約令に触れて摘発されてしまうほどでした。
この「松が鮨」、両国の「与兵衛寿司」、人形町の「毛抜鮓」を江戸三鮨といい、名物店だったのです。
江戸の寿司文化は本当に奥が深いですね。
そんな偉大な先人達に敬意を払い、本日の夕食は握り寿司に決まりました。
さぁ、いってきます♪
画像出典元:http://blog.livedoor.jp/k1500/archives/52122588.html

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