あの日から5年…思いを寄せる


今年も3月11日がやってきました。あの東日本大震災から丁度5年です。
当時会社員で営業をしていた私は外回りで逗子の客先に向かっていました。
客先の会社の看板が見えた頃、突然車のハンドルが取られて制御が困難になり、フロントガラスの外では電信柱が風に吹かれた竹の様にしなっていました。
突き上げる強い揺れに、ぎゅっと身構えるしか術はありませんでした。
震度5強という今まで体験したことがない強い揺れに呆然としたまま、煙草を吸うのが精いっぱいでした。
客先で用を済ませて横浜の会社に戻りましたが、既に高速道路は閉鎖され、国道の信号が停電で溢れ返る車の流れが非常にカオスでした。
片道40分の道のりを4時間かけて会社に戻り、会社のビルが半壊して帰るにも電車が止まって帰宅難民となってしまった妻を迎えに品川へ向かいました。
全く車列が進まない深夜の第2京浜、寒さに震えながら歩いて自宅に帰る人たちで歩道は溢れ、時折携帯から鳴り響く緊急地震警報に身構えていました。
カーラジオより地震や津波の被害情報が次々と入り込んできて、今自分の周りに起きている出来事は本当のことなのか信じられない思いでいっぱいになりました。
鮫洲で何とか妻を見つけて、朝方に自宅へ帰り着きました。
東日本大震災では岩手、宮城、福島の263漁港が激しい被災を受け、被害総額は1,000億円を超えました。
漁港施設全てが津波に流された漁業関係者は途方に暮れながらも、一刻も早い復興を成し遂げて東北地方の旨い魚を消費者に届けたい思いがありました。
そんな中で漁港復興に名乗りを上げたのは、外交評論家岡本行夫氏が立ち上げた「希望の烽火(のろし)プロジェクト」でした。
岡本氏が外交官時代、湾岸戦争で戦地に派遣されている米軍へ「何が今一番必要で、欲しいものか」ということを的確に分析して、物資を送り届けたノウハウを用いて、漁港復興に今もっとも必要なものは何かということをアプローチします。
漁船が稼働出来て漁に出られたとしても、漁港に施設がなければ魚を水揚げすることができません。
三陸地方は8月がサンマ漁のピーク時ですが、せっかく三陸沖で獲れても他の漁港へ向かわざるを得ません。
水揚げした魚の冷凍保管庫など最低限の施設さえあれば、地元の水産業が再び動きはじめるのです。
そこで海運コンテナを改造して冷凍機を搭載した、冷凍コンテナを漁港に提供しました。
横浜港で資材を集めて被害が少ない仙台港まで海路で運び、石巻、気仙沼、女川、南三陸、大船渡、宮古、相馬の港、周辺地域の漁業関連施設などトラックで運搬します。
少しずつ沖に出て魚を獲る船が増え、水揚げされた魚は冷凍コンテナに収められて漁業がいきを吹き返しました。
それから5年、大分復旧の進捗が進んだ東北各地域では、一丸となって街の復興や活性化に力を入れており、美味しい東北の魚のPRや販売に力を入れております。
まだまだこれからするべきことは沢山あるかと思いますが、更なる発展を願ってやみません。
改めて東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り致します。
画像出典元:http://theblack.blog.so-net.ne.jp/2011-09-10

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